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2013年10月20日日曜日

尊巳及人哲学の背景を語る  神奈川県倫理法人会レクレーション副委員長 太田憲秀


今週は台風の来襲で水曜日の当会永島前事務長の講話が流れましたので、広報担当の筆者が行ったお隣の藤沢市倫理法人会での講話を簡単にご紹介したいと思います。テーマは「尊巳及人」、この行動哲学へ至った経緯と言うか「根」の部分を自分の半生を振り返って探ってみることにしました。これが、倫理法人会でお話をする最初の機会でしたので、何を話すか迷った上の選択でした。倫理法人会へ入会してから、これといった成果も、神がかり的な出来事にも遭遇しておりませんので、倫理法人会で話すのは?と思っておりましたが、「ゴルフとカメラとブログ・ライターの叔父さん」のイメージが定着(笑)した今、少しそのイメージの定着も如何なものかと思っておりましたので、この際、違う横顔を知っていただく機会になるかなと思い長谷川会長のお申し出をお引き受けすることに致しました。


 これが講話のレジメという類のものですが、この背後には当然沢山の話を用意致しましたが、なれないせいか全部をカバーすることは出来ませんでした。筆者が今、倫理で言う「尊巳及人」的な行動・活動を自然体で出来る背景になっているのは親父の生き様だったと思っております。親父30歳の時、長男として生まれましたが、丁度終戦の年、空襲で焼け出され、母の在所であった愛知県中島郡平和村で育ち、三菱の飛行機製造工場で経理をやっていたため、兵役を免れた親父は自らが習得していた書道や骨接ぎ、そして考案した製造機械で棕櫚の箒や左官屋さんの使う刷毛を作っては名古屋の問屋へ納品しておりました。母の在所は跡取りが病死したので、農業をしつつ育ててもらいました。当然貧しかったですが、ひもじい思いはしませんでした。回りが農家で習字や骨接ぎの代金は農作物や毛織物でした。それは、家計を随分助けていたようです。こうやって、人が集まってくる人徳があったようです。生涯で一度張り倒されたことがありましたが、それは私が母親に失礼な言葉を浴びせかけた時。それ以来、母への態度はガラッと変わったと思います。後年、私の失業中に山陰や三河、伊豆の温泉へ連れて行きましたが、今、それをやっておいて良かったと思っております。仏壇のない我が家ですが、両親と写した写真が仏壇代わりになって、その前に花を供えるようにしております。

 先生や友達に恵まれた小中高時代を終え、美大の入試に失敗し、浪人した時代にデッサンを積み、大學へ入学後も二年ほどはデッサンを続けました。それが今、写真や制作物の創作に役立っていると自分では思っております。

 大沢商会への入社は試験問題が問題集にでていたものとそっくりの偶然もあり、難なく合格。今から考えれば、これも何かの縁とも考えられますね。


 大沢ではゴルフ用品の営業とマーケティングを担当し、担当したベン・ホーガンのクラブやフットジョイのゴルフシューズで業界をリードしたことは自身の大沢時代のサクセスの一つで、これは「機を見るに敏」、倫理でいう「前髪をグッと掴む」ということでしょうか。「運命自招」とも言いますが、その時、何が必要か、何が自分にはあるのか、アドバンテージを極限にまで生かすことの大切さを今から思えば知らずの内に実践したということでしょう。19年間ゴルフ部門で仕事をしましたが、業界初の戦術はあまたありました。先取の気質は会社の文化であり、それの多くは、その後、競合他社の追従する処となり、業界の発展と自社の業績に結びつきました。

 成功ばかりでなく、サラリーマン人生のピンチもありました。あることがきっかけで、突然、職を解かれ、暗い一室に机と電話、タイプライターを一台与えられて、スポーツ衣類の滞留在庫を東南アジアの諸国へ輸出する仕事を命じられました。ワンマンジョブで亜流です。みんなは早晩会社を辞めるだろうと思っていましたが、自社クラブを日本製品の人気が高かった東南アジア諸国に代理店を作り、そこへの輸出をメインの仕事に変えて行きました。国内営業部で貿易の仕事が出来たというは筆者だけで、この時代は二年ほどでしたが、有意義な時代でした。この時覚えたタイプライターはその後のワープロ、パソコンの時代にすんなりと適応できる基にもなりました。ここにも「苦難福門」「運命自招」がありました。

 ところが当社は1984年に会社更生法を申請し、1200億円の負債で、戦後三番目の大型倒産となりました。直接的にはカメラの輸出のために投資した資金が回収できず、資金繰りに行き詰まったものですが、ここでの経営にまつわる話は学ぶべきことが沢山ありますが、次の機会に譲り、ここでは割愛します。


 海外商権(ブランド)の継続確保の目処が立ったとき、不本意ながらゴルフ用品部長から名古屋支店長に転出しましたが、ここでの仕事は「会社再建」でした。会社は若手の経営幹部を育てるため支店経営をやらせて適性を見ようとしたようです。会社再建は支店再建でもあり、ここでの行程は一つの組織の活性化、企業の活性化のサンプルとなると思います。社員の士気をどう上げるか、組織やスタッフをどう使うか、自分たちにが持つアドバンテージは何か、役に立つものを探し、それを最高に機能させる、この術を最高に発揮できた時代でした。社員5050億円の売上達成は他支店の「支店再建モデル」となり、全店表彰を受けました。地の利(名古屋人気質)、時の利(支店開設50周年、会社創業100周年)、人の利(先輩たちそして大沢ファンのお得意先等々の遺産)、これらをどうつなぎ合わせるかはマネージメントの面白さでありセンスでもあることはお分かりになっていただけるだろうと思います。「ものはこれを生かす人に集まる」、そして「運命自招」でもありました。ここにもやはり倫理の教えがありました。

 やがて本社へ戻り、経営幹部として会社で一番華の事業部であった第一営業本部を担当することになりました。名前を挙げれば皆様がご存知の海外ブランドばかり、それを社長と二人三脚でSHOP-in-SHOPや路面店展開を推し進めていきましたが、この事は会社の業態を変えることでもありました。セゾングループの支援を得ていた我々のドメインは卸業、百貨店やGMSの小売業界ではありません。そんな問題が社長と管財人の間で突如吹き上がり、社長はじめ経営幹部は退社することになりました。企業の存続へ、我々はこの方法しかないと思っておりましたが、それは今でも正しい選択だったと思っております。この話だけで、倫理で言う「易不易」のお話が出来るのではないかと思っております。



 話は本来のテーマと違うところへ行ってしまったかもしれませんが、親の後姿、人の恩、人の縁のありがたさと、そのことへの感謝の念が、今の自分自身を大切にし、自分が出来ることで世の中や社会に貢献していこうと言う生き様につながっていると結びました。倫理で得た人の輪は年々広がっています。何よりも自分より若い世代の方々と、又地域で活躍されている方々と知り合いになれ、地元のために尽くせることのありがたさを感じています。


 最後に筆者が心酔するゴルフの神様ベン・ホーガンのお話です。氏が72才頃にライセンス契約の問題で半年近く毎月テキサス州のベンホーガン社にサンプルを持って出かけましたが、最後にサンプルが承認されて契約する段になって「Mr. Ohta!もし君が僕の名前を汚すようなクラブを作ったら、僕は君を殺す」と云いました。完璧(PERFECTION)の代名詞で呼ばれたMr.HOGANは所属のシェディーオークスC.C.で毎日ボールを打ち、ホーガンクラブのパフォーマンスをテストしていました。下の写真には「There are no shortcuts in the quest for perfection」(完璧への道にいかなるショートカットも無い)と書かれています。もって肝に銘ずべしと思っております。有難うございました。



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